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2006年2月 9日 (木)

北方領土

kokudo マイルスでっす

2月7日は北方領土の日でした。

今、世間は騒がしく、ニュースは日々上書き更新されているような感じです。メインニュースが毎日毎日「ご破算で願いまして」ってチャラにされて上書き的に入れ替わり、腰をすえた記事が少なくなっている気がします。いや、ネット界ではなくマスコミ界に関しての実感です。

実際、今年は北方領土の日に関してほとんど触れられていなかったように感じています。

悲しい事実です。

オイラはこの国を愛しています。

いや、もとい!正確に言うと、この国の文化と風土を愛しているんです。

オイラは大学時代、歴史を学んでいました。思えば、歴史を専攻するに至ったのは・・・・。単純に浪漫を感じ好きだったからであり、そして、その浪漫の根源は過去の人々が未来に託した想いにあり、それに触れ胸打たれ琴線を掻き鳴らされた経験によるように思われます。・・・・・という綺麗な理由だけじゃなく、ホンマのところは、歴史という浪漫ある世界は現実逃避に便利だったからというのが本音かも知れません。なんせ思春期のオイラの眼に映る同時代の人々の腐りっぷりに対し、過去の偉人は輝いていたんでねぇ。

そんな当時、オイラが尊敬する一人に伊能忠敬さんがいたわけです。

そして、弟子?間宮林蔵を知り、遡っては最上徳内を知り、彼らの国土への想いを知ったわけです。

文化を育てるのは国土であり風土だと信じます。

この国に住むすべての人にとって国土、風土こそ『祖』として大切にすべきものだと信じます。

なぜならば、ここでオイラたちは暮らしているのだから。

以下2ch ID:tdpXvQSLさんの書き込みより引用

640年、「流鬼」(樺太アイヌ)が唐に入貢。
1264年、蒙古帝国(のちの元)が3000人の軍勢を樺太に派兵し、住民の「骨嵬」(樺太アイヌ)を朝貢させる。
1284年、「骨嵬」が元に反乱を起こす。
1295年、日持上人が日蓮宗の布教活動の為に樺太へ渡る。
1297年、日本の津軽地方を本拠地とする蝦夷管領安東氏が「骨嵬」を率いてシベリアの黒竜江(アムール川)流域に侵攻する。
1308年、「骨嵬」、元に降伏。毎年の貢物を約束。
1368年、元が中国大陸の支配権を失い北走、満州方面を巡って新興の明を交えての戦乱と混乱が続き、樺太への干渉は霧消する。
1411年、明が樺太遠征を計画。
1485年、樺太アイヌの首長が武田信広(松前藩祖)に銅雀台を献ずる。
1593年、豊臣秀吉が松前慶広に蝦夷地全域の支配権を付与。
1635年、松前公広が村上掃部左衛門を樺太巡りに派遣するし、ウッシャムに至る。
1644年、江戸幕府が松前藩から提出の所領地図を基に作成した「正保御国絵図」に、樺太が北海道の北の大きな島として記載されている。
1679年、松前藩の穴陣屋が久春古丹(大泊)に設けられ、日本の漁場としての開拓が始まる。
1709年、清の皇帝が3人のイエズス会修道士に命じて清国版図測量中に黒竜江河口対岸に島があると聞き、現地民の通称であるサハリン・ウラ・アンガ・ハタという名で呼んだ(清は樺太の存在を認知したが、その版図には加えられなかった)。
1742年頃、樺太アイヌが清商人を略奪し、清の役人が樺太アイヌを取り締まる。
1790年、松前藩が南樺太南端の白主に商場を設置する。
1799年、樺太南部など蝦夷地が幕府の直轄地となる。
1806年、ロシア海軍士官らが久春古丹を焼き討ちにする。
1807年、樺太南部が再び幕府の直轄地となる。ロシア海軍士官が択捉島とともに留多加を襲撃する。
1808年、江戸幕府が、最上徳内、松田伝十郎、間宮林蔵を相次いで派遣。松田伝十郎が樺太最西端ラッカ岬(北緯52度)に「大日本国国境」の標柱を建てる。
1809年、間宮林蔵が樺太が島であることを発見し、呼称を北蝦夷と正式に定める。松田伝十郎が樺太統治に貢献した。また、山丹貿易を幕府公認とし、アイヌを事実上日本人として扱った。
1821年、樺太が松前藩領になる。
1853年、ロシアが、北樺太北端クエグト岬に露国旗を掲げ、領有を宣言。ロシア軍が久春古丹を襲撃する。ロシア使節プチャーチン来日。長崎に於いて樺太・千島の国境交渉と交易を求め、日本全権筒井肥前守・川路聖謨と交渉したが、決裂した。
1855年、日魯和親条約により、1852年までに日本人(大和民族)とアイヌ民族が居住した土地は日本領、その他当面国境を定めないことを決定した。
1859年、ロシア東部総督ムラヴィヨフは、軍艦7隻を率いて品川に来航。樺太全土は露領と威嚇したが、幕府はこれを拒否する。
1865年、岡本監輔が、樺太最北端ガオト岬(北緯55度)に至り、「大日本領」と記した標柱を建てる。
1867年、ロシアが強大な軍事力を背景にペテルブルグの国境交渉で、幕府に迫り、樺太仮規則に調印。初めて正式に日露両国の共同管理地となり、両国民が雑居したが、紛争が絶えなかった。
1870年2月13日、樺太開拓使が開拓使から分離して、久春古丹に開設される。
1871年8月7日、樺太開拓使を閉鎖し、開拓使に再度統合する。
1875年5月7日、樺太・千島交換条約締結により日本は樺太の領有権を完全に放棄し、全島がロシア領となる。
1905年、日露戦争で日本軍が樺太島全域に進駐、占領する。
1905年9月5日、日露戦争後のポーツマス条約締結により、北緯50度以南の樺太島(南樺太)がロシアより日本へ割譲されて領土となり、樺太民政署を置く。
1907年3月15日、樺太民政署が格上げされ、樺太庁発足。
1908年3月31日、内務省告示にて、地名を日本語式漢字表記に変更。
1915年6月26日、勅令第101号樺太ノ郡町村編制ニ関スル件により、17郡4町58村が設置される。
1918年からのシベリア出兵の際に日本は北部も占領したが、1925年に撤兵する。
1929年、拓務省の指示下に樺太庁が編入される。
1929年3月26日、樺太町村制が公示され、町村に自治制が敷かれる。
1942年11月1日、拓務省が他省庁とともに一元化され、大東亜省になり、樺太庁は内務省下に変更される。
1945年8月8日、ソビエト連邦が日ソ中立条約を一方的に破棄して侵攻、8月28日全制圧される。
1946年2月2日 - ソビエト連邦、南樺太および千島列島の領有を宣言する。
1951年9月8日 - サンフランシスコ講和条約締結により、南樺太および千島列島の領有権を放棄し現在にいたる。

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